【縄文之森協議会が、貴重な縄文時代の杉から作った板を拝受!】
 この目の詰まった板は縄文時代の埋没林から発掘されたもので、その証拠に黒くなっている杉の板!!!
IMG_0029のコピー (1)
 色が濃いのは埋没林から発掘されたものだから。

 二つ頂いた。
IMG_0084のコピー (1)
IMG_0079のコピー (1)
 表札用の分厚い板と、飾り用のもの。飾り用のものは、架台まで作って下さり裏書きまで書いて頂いてある。

 この縄文杉が、どの位目が詰まった年輪かというとこんな感じ。北斜面の日当たりが悪い厳しいところで育ったものなのだろう。下記に訂正あり。
IMG_0087のコピー (1)
 畳の目と比較すると判りやすいかもしれない。
IMG_0020のコピー (1)
 年輪が1mmとか2mmくらい。でも、杉だから軽いんだよね。縄文時代には硬い栗の木も用材に活用していたそうだけど、杉材も使っていたのだろうか。

 そもそも伐採は石斧を使っていたのだろうか?掛かり木が発生したらどうやって処理したのだろう。タイムマシンがあったら一番行ってみたいのが縄文時代だ。

 薄い方の木目がV字型になっているのが面白い。これは反対側まで同じ様に突き抜けて同じ形。
IMG_0022のコピー (1)
 凄いね!!!身が引き締まる想いだ。下さったのは樹木医のS大先生(現時点で、お名前を出して良いのか判らない)。
 ブログに載せても良いよ、と言ってくださったので取り敢えず載せて縄文の息吹をシェアしてみることにした。

 と、記事に書いてから内容のチェックをお願いしたところ下記の様に丁寧なご返事を頂戴している。また、S先生から添付にて頂いた資料を元に、縄文時代の気候や植生についても整理してみよう。


【縄文時代の天然杉の森の植生更新について】
 緑色の大文字は、S先生からメイルで頂いたコメント。

> この中で「北斜面の日当たりが悪い厳しいところで育ったものなのだろう。」との一文がありました。これだけの年輪の詰まった材から見てとのことと思いますが、これは適切ではないと思います。
> 天然杉の特性について先般お話ししたと思いますが、劣悪な環境にしか育たないため、おのずと年輪幅が小さくなっていると考えています。
> もちろん、差し上げた材は辺材部で成長の遅い部分ですが、心材部も年輪は詰まっています。

 と言う様に、わたくしの浅はかな推察は玉砕した。生半可な知識だけだとこういった知ったかぶりを書く様な間違いが起きるということで恥を偲びつつ訂正をさせて頂こう。
 さらに頂いているコメント・・・

> 特に林業に携わっている人たちは、谷筋にスギ、尾根にマツ、中間部にヒノキを植林するのだと頭に叩き込まれており、スギは谷筋に自生していたものではないといっ
> てもにわかには信じてもらえません。
> 三瓶埋没林の場合も、谷底部に杉の巨木が生育していましたが、これはウラスギの特性によるものと考えています。尾根筋にあったスギから、取り木の要領で伏状更
> 新を繰り返し谷底まで到達したと考えています。

 ここに載せたS先生のコメントにある“伏状更新(ふくじょうこうしん)”、というのは、木の植生更新の仕方、つまり生き残るための再生や世代交代の方法の内の一つの方法。

 他には、針葉樹、広葉樹に於いて実から発芽して次世代に繋いで行くのが実生更新(みしょうこうしん)で、さらに他には、若い広葉樹の場合に折れたり伐られたりすると、その切り株から新しく芽が出て育っていくのが萌芽更新(ほうが・ぼうがこうしん)と呼ばれる再生の仕方がある。

 また、立状更新(りつじょうこうしん)と云われる、立っている木が途中で折れた場合に於いて、枝が幹に取って代わり主幹として上に伸びていく更新方法がある。

 例えば下画像の様な状態の木を山奥で観ることがあるだろう。
IMG_0015 (1)
 此処は地滑り地なので、斜面の土が動くために多くの木の根が此の様に曲がっている(こういう植生の山の裾には住んではいけない)。
 同様に豪雪地帯でも雪の重みで、同じ様に木が曲がりながら上に伸びていく。

 その雪の重みで木が倒れた場合に根が残っていて、さらに幹の途中から根が出て上に立ち上がっている木を観たことがあると思う。
 下画像は、それとは違うが、地面に寝た枝に根が出て、そこから主幹となる細い木が立ち上がっている様子。
 これが伏状更新を行なっている初期の段階。
IMG_9328のコピー (1)
 つまりS先生の仰るのは、山の高い位置にあった杉林の中で、豪雪で下方に倒されたものから立ち上がって伏状更新を行い、それが繰り返されて標高の低い谷の下まで林相が広がっていった、ということだと思う。

 また、S先生から頂戴した資料中には、出雲大社で平成十二年に発見された直径135cmに及ぶ巨大柱根の樹種が杉であったこと、また鎌倉時代の初期の造営と考えられていることから、「その時代にスギがどのような分布をしていたのか大いに興味があるところだ。」、とされている。

 続いて、「現在、島根県内に自生しているスギは、三瓶山の中腹など中国山地の標高700m以上の高地にわずかに見られる程度で、低山部の里山に自生するスギは全く見られない。わたしたちが谷筋などでよく目にするスギ林は、人の手によって植えられたものである。」、と書かれている。

 しかしながら、S先生は、天平五年(西暦733年)に書かれた出雲国風土記に、『吉栗山、郡家の西南二十八里なり、檜・杉あり 謂わゆる所造天下大神の宮材造る山なり』
 との記述があることを挙げられて、その柱根が、
『直径130cmのもので約100年から180年ほどと粗く、間隔が1.5cm以上もある場所も見られたのだ。』、と記述されているが。。。

 それと対比して、『なお、当時の里山はシイやカシ林に広く覆われており、スギ林が成立したのは急斜面の岩角地など、土壌条件は悪いものの、雨が多く水分条件はみたされるような、特殊な環境条件の場所であったと考えられている。此の様な条件下に自生するスギ林は、当然のことながら生長が悪く、成長の度合いを示す年輪幅も極めて狭いものである。痩せ地の斜面に自生している屋久スギが、非常に緻密で腐りにくいことなどを考えれば理解しやすいであろう。三瓶埋没林で発見されたスギも、このことを証明するかのように年輪が詰まっており、直径160cmのものでも443年の樹齢を確認している。』、と書かれている。

 この平成10年11月に発見されることになった、三瓶山の火山活用による約3500年前の縄文時代後期に埋没した小豆原埋没林の標高が200数十mということは、現在の島根県に於いて自生しているスギ林が標高700mということと比較しても、低い標高でスギ林の自生があったことを示しているという内容だ。

 その資料には、『木の文化とも呼ばれる日本の文化を支えてきたのは、スギである。スギの和名は、幹がまっすぐ伸びる木、つまり「直ぐ木」から来ている。加工がしやすく、古くからさまざまな用途に使われてきた。遺跡から出土する縄文時代の丸木舟も、ほとんどが杉でつくられている。登呂遺跡の水路などに使われたのも杉の板であり、酒樽材、家屋の柱材、電柱材など、スギは日本人の生活と密着したかたちで、それぞれの時代において利用されてきた。』、とS先生が書かれている。

 そう言えば、古代史で遺跡からスギを使った遺物が発掘されていた話は習った記憶がある。縄文時代には昔から興味があって、30年近く前に東北を野宿しながら回っていた時(未だ三内丸山遺跡が見つかる前)に青森の亀ヶ岡遺跡にも足を伸ばし、学芸員の方に色々教えてもらった事もあるくせに、アルコールで老化した脳は大事なことも思い出せなくなっていることを改めて認識する次第だ。

 それは、木の文化の国とは言え、もしスギという柔らかく素直な繊維の木の存在無くして、昔の様な道具類しか無かったのならば、加工作業が大変だったのは確か。

 他の記事にも書いたが、7年くらい前に近所の小学校の環境教育を頼まれた時に、子供達相手に杉の丸太を楔で縦に半割りをして見せ、「大昔の縄文時代の頃には、こうやって丸太を割って使っていたとか、船も作っていたんだよ。」、と教えたことがあった。

 その時は、先生方や周りの大人たちには大ウケしたけれど、時代背景の基礎知識がない子供達には全然ウケなかったのは、デモの意図設定が悪かったのだろう。

 さて、話を戻して杉の天然林の自生の話。先の出雲風土記に記載されていた出雲の標高311mの吉栗山の山麓の標高200m強の林から運び出した(神戸川を使った水運により)スギは育林されていたかの様な木目の粗いものではあったが、同じ三瓶山の麓の標高200m強の小豆原には杉の天然林の大木がかつての縄文時代にあっては、それは厳しい環境を生き抜いた目の詰まったものも育ったわけだ。

 ご存知の様に、今から6000〜7000年前の縄文中期には、今よりも平均気温が1〜2度以上も高かったので、縄文海進と云われる内陸部まで海だったことがある。

 当然のことながら、この気候変動は植生にも当然影響をしていて寒冷期にはスギの植生はシラビソやトウヒなどに追いやられていたらしい。

 18万年〜13万年前には、天然スギが日本列島全体を覆っていたと考えられているそうだが、その後の寒冷期には範囲が縮小し、再び縄文時代の早期の暖かくなった頃に、エリアが増えて広がったそうだ。

 さて、先にスギの伏状更新について書いたが、表土に落ち葉が多い場合には其の負荷に負けて実生では自然生えが起きにくいもらしい。
 斜面の崩壊とかなんらかの理由で表層にある落ち葉などの堆積が無くならないと生えて来ないそうなので、落葉広葉樹が多い場合には競争に負けてしまう樹種だったのだ。

 その頃の寒冷化から温暖に変わっていく際に、スギの天然林にブナ林が入り込んで来て混生が起きて行くそうだが、面白いのはスギの個体は樹齢が長ければ2000年さえも生きるものだけれど、ブナの場合には長くても400年程度だとか。

 その広葉樹に依って樹冠と共に地表が落ち葉に覆われている場合には、スギは伏状更新によって細々と生きながらえていく、ということである。
 もちろん、母樹となるスギの木がある場合に、他の木の倒壊などにより地表が撹乱され、また林内にギャップと呼ばれる空間ができて、陽が実生苗によく当たる条件が成立した場合には、実生更新により新たにスギの生命を次世代に繋いでいくわけだ。

 下画像はブナ原生林に杉の幼木が生えている状態。中国山地、北広島町のブナとスギの混交しているエリア。
IMG_9325のコピー (1)
 この辺りはこんな感じで、スギはブナほか広葉樹に負け気味のところ。この幼樹も伏状更新に依るものだろうか。

 さて、先のS先生のコメントにもあったウラスギと言うのは、日本海側に生えているスギの種類で京都の芦生山地で認定されたものなので一般的には芦生スギとも言われていたはず。

 オモテスギは太平洋側のスギで針葉の角度がウラスギよりも大きいのが特徴。外見だけでは分かり難い場合もある。
 そのウラスギの更新は伏状更新が多く実生更新は非常に少ないが、屋久杉などオモテスギは実生更新に依って更新するとされている。
IMG_2435のコピー (1)
 上画像は、ブナの原生林もある広葉樹林の中に生えているスギの育成状態(中央とその右部分)。植林山にある様なスッキリと伸びた姿にはなっていない。
IMG_6409のコピー (1)
IMG_6407のコピー (1)
 そして、枝も雪にいじめられているから一様な姿形は保っていられない。

 でも、覆い被さった広葉樹の樹冠から飛び抜けると元気な姿に。上の方の画像にある数本のスギの幼木は、この親木?の下層植生としてあったもの。
IMG_9323のコピー (1)
 下の画像は、これまた岐阜の白山の中腹のブナとスギの混交林のもの。落葉広葉樹のブナが多いために日当たりが良いのか、スギの幼樹も多い。また、実生で生えることが出来る様な、表土が露出する様な環境なのだろうか。

 白山の南側なのだが、ここはウラスギ、それともオモテスギ? 下画像の下層植生のスギの幼樹は実生で生えた様な感じのものばかり。
IMG_3022のコピー (1)
 ここも豪雪地帯。
IMG_3051のコピー (1)

 因みに、平成15年に発見された、同じく三瓶山の噴火によって埋没林となった横見埋没林では、7〜5万年前の広葉樹の埋没木を観ることができる。

 つまり長い歴史の間には火山噴火により地域の自然が一変してしまうということがあるということを改めて認識する次第。

 今も西之島がガス抜きになっているから未だ良いけれど、富士山だって何時噴火してもおかしくないし、此方山陰は北陸の白山からのルートである白山火山帯に属する休火山の独立峰が海沿いにたくさんあるから呑気に構えては居られないかもしれない。

 白山は北朝鮮と中国の境の白頭山にも繋がっているというし、この大きな白頭山が噴火したら日本にも相当の影響があるはず。

 その様な時代になってしまっているので、何があっても良い様に避難生活をより安全に快適にするための自衛策も必要かな、と言う事で前回の記事も書いてみた。そういった状況に於いても扱いやすい杉材は大事かもしれない。

 こうやって書いてみると、改めて日本人の生活はスギと密着していたのだろう。場合によっては標高の低いところでもスギを活用できる様に縄文人はスギを山から植え替えて育てていたかも知れない。

 スギだけではないけれど植物の生命力って凄いもんだなと改めて思う次第。でも、寿命が長いのはスギ。神社にある御幣は、今は和紙だけれど、大昔はスギの皮が御幣に使っていたと何かで読んだことがある。

 きっとスギの甘皮なんだろうけれど、実は、うちの妻が手伝いに行っている子供達の環境教育では、スギの甘皮を使って紙漉きをやっているからね。小学生大喜び。

 下画像はS先生による島根県の森林インストラクターの講習で行われるスギの甘皮を使った紙漉きの様子。
DSCN0156のコピー (1)
DSCN0171のコピー (1)
 最後に仕上げると色は付いているがしっかりとした和紙が出来上がる。
DSCN0198のコピー (1)
 その様なことも教えて貰い、スギがますます身近に感じられる。えっ?スギ花粉が一番身近に感じられるって。。。あれは、お金のために植え過ぎたからでは?

 そして、今のそんな植林の真っ直ぐなスギしか知らないと、高樹齢の長い年月を生き抜いて来たスギたちの雄々しさに圧倒されるだろう。

 此方は、白山の浄安杉。幹が4本に別れている。此処がブナとの混交林が成立しているところ。
IMG_3629のコピー (1)
IMG_3029のコピー (1)
 此方は熊本の幣立神社の五百枝杉(いおえすぎ)。
IMG_3790のコピー (2)
 その参道沿いに生えていた太いスギで、高い所から折れたのであろう、其処から立状更新で幹が二本になっているもの。こういった様相のスギは、スギの植林の林でもよく見かける。
IMG_3804のコピー (1)

 そんな凄い杉の木なのだが、縄文時代に生きていた杉から作られた板を頂戴したことは身に余る光栄。
 経緯としては、S先生には以前から縄文時代の杉を下さるとは仰っておられ、たまたま先日山口県で会議があった際に当家にお立ち寄り頂き、『何で、匹見・縄文之森協議会って名付けたの?』、と聞かれたので、「9年ちょっと前に移住してきた年に職場の地区センターの近くで、8400年前の前期と3500年前の後期の縄文遺跡が発掘されていたんですよ。匹見町は他地域と違って縄文草創期から後期までの遺跡が全てあるので、縄文銀座とも言われるらしいですよ。」
6P10206326P1020629
 「わたしは植林ばかりの山でなくて、広葉樹豊かな縄文時代の様に働かないでも森の恵みで生きていける様な楽チンな世界になったら良いなと、収奪のための人工林ばかりでなく、そんな生命力あふれる森に復活させたかったから・・・」、みたいな内容を酔っ払って喋ったので、早速送って下さったのだった。

 まあ、そんな縄文時代の生活模様に対するオマージュはそれもあるけれど、1万年以上に亘って大きな戦いがなかったということと、それから集落の遺跡から判る、また年寄りとか障害者(怪我をした人たちをふくめ)を集落の上座に据えて暮らしていたという、此れらの精神性が現代で復活すれば良いな、という想いも含めて僭越ながら名前を付けてみたものだった。

 とは言っても、長い縄文時代にも特に後半は大陸から入って来た人たちとの戦いがあったようだし、日本列島の場所によっても異なるので一概には言えないだろう。

 あとは、縄文時代の前時代がどんなものだったのか、同時代に併行する他地域の文化との関係性は、立地条件によっても異なったことが推察できる。
 この匹見町がある島根の西部、石見地方と言われるところは、大陸や半島から、また北方、南方からも入って来にくいところだったかも知れない。
IMG_3578のコピー (1)
 が、今となってはそんな協議会名をつけたのも内容からすると過分でもあり、名前に任じ得ないかなと反省している。
 そして、活動範囲が匹見だけというよりも、島根県全体から近県にも広がっているので、匹見という文字は取ってしまおうかと。
IMG_3577のコピー (1)
IMG_3576のコピー (1)

 さて、この縄文杉は、縄文時代の埋没林から発掘されたもの。島根ではS先生と共に多くの方々の助力によって、「三瓶縄文の森ミュージアム」で貴重な縄文時代の杉の切り株や立木を観ることができる。

 あれっ、ここの施設は縄文の森って付いていたんだ。。(最近名付けた様子)。うちの協議会は2011年の暮れに立ち上げたのだが、この三瓶縄文の森ミュージアムには、関東から島根の西に向かって野宿しながら移動している最中の2011年の3月の後半に立ち寄っている。

 その前に島根に入ってから、足立美術館とか熊野大社、出雲大社から荒神谷遺跡加茂岩倉遺などを回りながら野宿していたけれど、一番感動したのが三瓶山麓の小豆原埋没林の施設にある縄文時代の杉と対面した時。夫婦で涙していたもんね。


【さんべ縄文の森ミュージアムにて】
 その際に撮った画像を載せてみる。もっとも他のしっかりしたサイトに画像は色々載っているので此方ではざっとの紹介だが、現物は凄いのでご興味がある方は是非足を伸ばして頂ければ幸い。
IMG_6940 (1)
IMG_6928 (1)
 縄文時代の三瓶山(休火山の独立峰)の周りの樹種だが、当然ながら広葉樹が多かった様子。
IMG_6909 (1)
 この埋没林は、三瓶山の北麓の谷筋ということで日当たりが悪かった厳しい地形のところに杉を主体とした森林だったということ。
IMG_6910 (1)
 なので、日当たりが悪いから一年に育つ大きさが少しずつなので木目が詰まっているということと、全体に平均して木目の詰まり方が同じだから、どこか一方に陽が当たって一部だけ成長著しいということがなかったので、全体に綺麗な木目に育ったということになる。
IMG_6936 (1)
 皮が剥がれない様に養生がしてある。
IMG_6937 (1)
 この時もそうだったけど、縄文時代の4000年前に生きていた杉が発掘された後も匂うというのも感動だった。
 あ、頂いた縄文杉の板も杉の香りがするよ。
IMG_6939 (1)
 良くぞ発掘して保存してくれました!
IMG_6911 (1)
IMG_6915 (1)
IMG_6919 (1)
 土石流で流されて折れた杉?
IMG_6923 (1)
 これを展示のために伐ったチェンソーマンも大変だったろうなと。
IMG_6927 (1)
 此方の施設は、平和だった縄文時代に想いを馳せるのには最高のところ。オススメです。

 さて、此方は島根県西部の益田市匹見町にあるウッドパークに展示してある匹見町の原生林に生えていた芦生杉系(ウラスギ)のスギの木の画像。
P1080373 (1)
 匹見町にはかつて杉の天然林があった(そうだ)。今でも少し残っている場所もある。
IMG_3564のコピー (1)
 かつてと言うのは昭和ころ迄の話。このウッドパークにはかつての匹見町に於いて行われていた林業の様子が解る当時の索道の模型や道具類も展示されている。
IMG_3571のコピー (1)
 匹見町は山奥だけれどもかつては物凄いお金が動いた土地なので、自給自足的な智慧が残されている地域ではなく、全てがお金中心の考え方になってしまっている土地柄。

 山の木を売って儲け、そしてその後を島根ワサビという格別美味しいワサビで大儲けした人たちが沢山いる。そんなところが過疎になってどんどんエネルギーが無くなって行くと、諦観ばかりの依存的精神がインフレーションするばかりと。
IMG_3554 (1)
IMG_3553 (1)
IMG_3566のコピー (1)
 海べりの益田市にある土場まで30数kmの索道を敷設して、一気に天然杉を搬出していた。四国からも大勢の山師が来ていたそうだ。
IMG_3572のコピー (1)
IMG_3557(1)
IMG_3560(1)
 で、天然の杉は辛うじて若干残っているという話。昔は神様に通じる様な御神木があったんだろうね。

 そういった木を大事にしない地域(国)は衰退の道を転落するのかも知れないから、自然界に対するリスペクトの気持ち、畏れの気持ちが大事だと思うよ。

以上